(讃岐国主1585年~1586年 トホホ番号1番)
センゴクという漫画になったりして結構な有名人だったりする。
若い時から織田信長や豊臣秀吉に仕え、その豪勇で名を馳せていた。
秀吉からは戦線の指揮官などを任されているあたり、勇のみならず智もあり統率力もある人材として見られていたのだろう。
信長や秀吉が四国攻め(vs長曾我部)を行うにあたって、淡路島から四国攻めの第一陣として東讃へ上陸している。
引田城周辺で寒川、頼富、三好らと攻めたり攻められたりしたけれど、結局は長曾我部軍に大敗して小豆島に逃げたりしている。
長曾我部をなぜか悪くいう香川県人や徳島県人がいるけれど、この戦いは簡単に書くと四国代表vs岐阜・愛知軍団&徳島の一部の構図で、四国代表の長曾我部勢が勝利していると言う事をいま一度考えて欲しい。ま、そんなに簡単な構図でもないんだけど^^;
その後、明智光秀を討った秀吉が天下を取ると眼前の敵は長曾我部だけとなっていた。
これは長曾我部にとって不幸であったと言わざるを得ない。
タイミングが悪い。
毛利、宇喜多、豊臣勢の司法からの総攻撃なのである。
そしてこの時に讃岐攻めを担当したのが仙石秀久だった。
長曾我部の降伏により四国が豊臣のものとなった後、秀吉は仙石秀久に讃岐領主の地位を与える。
かつては小笠原、藤原、橘、細川と貴族、武士の名門が領主となっていた讃岐の地である。
ちなみに、時代は下って徳川の時代に豊臣秀頼と淀君が家康に大阪幸福の条件として讃岐の地を欲したとか。これは司馬遼太郎の小説で知ったことなので真偽は不明。
さて、讃岐を与えられた仙石の最初の仕事。
それは九州攻め四国勢の総大将。
四国の十河、長曾我部など並み居る名将を率いての島津攻め。
彼の最も輝ける時期だったに違いない。
場所は現大分県戸次川
川向うで敵の待ち伏せの可能性を示唆し、反対した長曾我部元親の待機して本軍を待つべしとした進言を無視して、仙石くんは突入命令を出した。
川を超えたところで長曾我部元親の言うとおり、島津軍は待ち伏せていて一気に包囲殲滅線を喰らう。
十河、長曾我部信親など討ち死に。
この二名が生きていたら後の歴史はいろいろと変わったと言われている。
仙石秀久はあろうことか、この戦いで讃岐まで一目散に真っ先に逃げ帰ったのである。
秀吉はこの失敗で仙石秀久の領地を没収。
彼は出世街道から転落したのである
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