前回から更に詰田川を少し遡ると戦国時代に敵対していた木太城と向城の跡がある。
まず見えてくるのは向城跡。
と言っても宅地造成中の土地の向こうに小高い丘があるだけ。
写真の右奥の木が生えているあたり
あぜ道を通って登ってみます。
戦国当時は真鍋氏の居城で堀や土塁に壁もあり攻めにくい城だったそうな。
真鍋氏は香西氏の家臣。
香西氏は長曾我部と結んでいた。
んで、このいつもの案内板の向こう。ちょっと見にくいかも知れないけど小学校の校舎が見える。
この校舎が敵の木太城。
歩いて10分。
小学校前には宮川という川が流れていてこの小学校越えたあたりで先程の詰田川と合流する。
この川を超えたあたりが木太城だったと。
案内板では神内城となっているように城主は神内氏。
植田町を本拠地とする十河氏の一族。
つまりは三好・十河氏勢力。
なので向城の真鍋氏(長曾我部勢力)と敵対することに。
ちなみに向城の名前はこの城と向かい合っていることからとのこと。
『十河VS長曾我部』
こんな近くの城同士で代理戦争やってたんだね
で、ほんっっっっとうにたまにいる香川の歴史マニアがよく語るのがこの2つの城の位置。
十河氏配下の木太城が香西氏側、香西氏配下の向城が十河側に位置。
逆になってしまっとる
さて。
結局この2つの城の決着はどうなったのか?
戦国時代と言っても史実が不明なことが殆どでこの2つの城の城主にもいろんな噂があるものの。
〇真鍋氏(向城)
平家物語の一の谷の合戦にも名前が出てくるほどの勇猛果敢な一族の末裔だったが、十河氏配下の前田甚之丞という者により暗殺される。夜半に寝静まったところに忍び込まれ女子供関係なく一族郎党皆殺しにあったという。この前田氏は長曾我部の兵糧も奪うなどの活躍もしているので長曾我部憎しの地元の人達からは英雄扱いされているけどちょっとそれはないだろうと個人的には思う^^;この件についてはまたの機会に。
で、これがその真鍋氏最後の当主のお墓・・・。
宅地の角に小さくポツンとある五輪の搭。
こういってはなんだけど長曾我部側として戦った人への冷たさは半端ねーなあ・・・
〇神内氏
こちらも源平合戦で活躍した一族。でもこっちは源氏方。
考えてみれば平氏で活躍して名を上げた真鍋氏と源氏で活躍して名を上げた神内氏が戦国期に至って再度戦っているわけだ。
神内は東讃において十河氏、三谷氏とともに御三家と言われるほどの名門。
植田の方に神内池とかって今でも地名に残っていたりする。
こちらは結局これも香西氏配下の松縄城の宮脇氏と向城との挟撃に合って大軍の前に落城。十河氏の没落と共に姿を消したとのこと。
さて、今回は2つの敵対しあっていた城跡を訪れることが出来た。
地図を見ると分流した2本の詰田川の間の平野部でこの2つの勢力がしのぎを削っていた当時の様子が目に浮かぶ。
ちなみにこの地を川内といい、川が合流する辺りには川合さんという名字を名乗るお宅もある。
向城近くの川付近はこういう川の合流地点があってこのあたりは川合さんとか河合さんというお宅も散見される。
また、この付近には真鍋さんという名前も多く、神内さんもいる。
この時代からこのあたりに住まわれていた方々の子孫かどうかは不明だけど、それこそ真鍋さんと神内さんのお宅が向かい合っていたりするので私なんぞはニンマリとしてしまうわけだけど。
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